パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月19日火曜日

散歩R(17-2) 旧パイヴァ館 L'ancien hôtel de Païva(9区サン=ジョルジュ地区)


☆サン=ジョルジュ広場28番地 (28, place Saint-Georges, 9e)
《旧パイヴァ館》 (Ancien Hôtel de Païva )
PA00088974 © Monuments historiques, 1992

パリの中でも屈指の美しさを誇る建物である。しばらく眺めていても飽きない。19世紀半ばの1840年から1841年にかけて建造された歴史的建造物。設計は建築家エドゥアール・ルノー(Édouard Renaud, 1808-1886)。パリの住居建築は賃貸アパルトマンが大半であるが、単なる賃貸住宅ではない堂々とした居館としての印象を与えるために華麗な装飾がふんだんに施された。
(c)Photo Emoulu bc03fa, 2013






















2階の正面窓枠の外側に壁龕を設け、一対の若い女性の清楚な彫像を配している。ルイ=フィリップの七月王政時代の趣味に合わせたネオ・ルネサンス様式とも呼ばれている。彫刻はガロー(G.J.Garraud)とデブッフ(A.Desbœufs)、手の込んだアラベスク模様はルシェーヌ兄弟(Frères Lechesne)の制作による。

(c)Photo Emoulu bc05f, 2013
両隣の窓枠には天使の小像が配されている。並みの人間が居住するような所ではないことを知らしめるためかと穿った見方をしてしまう。

1851年から1852年にかけての短い期間だったが、ポルトガルの貴族、パイヴァ侯爵と結婚したテレーズ・ラックマン(Thérèse Lachmann, 1819-1884)がこの家に住んで社交サロンを開いたことで知られる。彼女は元々ロシアの貧しい家庭に生まれたが、華やかな生活を夢見て、20歳でパリにやって来て、ロレット地区に住み、高級娼婦(クルティザンヌ courtisanne)として社交界に入り、高名な貴族や実業家、芸術家を次々と籠絡し、相手の資産を利用した豪華なサロンで第2帝政時代で最も有名になった。この32歳のときの結婚によってパイヴァ侯爵夫人(La marquise de Païva)という称号を手に入れ、夫君との別居後も使い続けたので「ラ・パイヴァ」(La Païva)と呼ばれた。

彼女はこの後すぐにドイツ貴族のドナースマルク伯爵の愛人となり、シャン=ゼリゼに豪壮な「パイヴァ館」(Hôtel de Païva )を建ててもらうことになる。
彼女の容姿を描いた絵画や写真はなぜか非常に少なく、あっても到底美人とは言い難い。とすればよほどの知性と教養と妖艶さがあったから、これだけの有名人たちを次々と虜にしてしまえたのか?不思議な力を備えた女性である。

(c)Photo Emoulu bc04fa, 2013






















☆サン=ジョルジュ広場28番地 (28, place Saint-Georges, 9e)
《画家ゴーギャンの新婚家庭》

この建物には若い頃のゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)も一時住んでいた。1873年11月に25歳でデンマーク人女性メット=ソフィ(Mette-Sophie)と結婚した直後の1874年から1877年にかけての約3年余りである。彼はまだ株式仲買人として働いており、高収入で裕福な生活を送っていた。この家の家賃も十分に賄える余裕があった。子供も2人できたが、彼は休みの日もほとんど外出せずに、暇さえあればスケッチをしたり、絵を描いたり、読書をしたりと、まるで独身時代のような時間の使い方だった。妻が友人たちを招いて食事をする場合でも、彼はすぐに引っ込んでしまい、妻が客人をもてなすのにまかせたという。ゴーギャンは1876年の美術サロン(官展)にパリ郊外の風景画を応募し、初めて入選を果たしている。この入選を経てから、彼はやっと共感を抱いていた印象派への仲間入りをするようになる。(LAI, PRR)

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9区サン=ジョルジュ地区(10-7)画家ゴーギャンの生家
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(c)Photo Emoulu bc04f, 2013