パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年3月5日土曜日

散歩R(21-3) ナビ派青年画家たちのアトリエ跡 Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ジャン=バティスト・ピガール通り28番地 (28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《ナビ派青年画家たちのアトリエ跡》(Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis)
(c) Google Map Streetview
 28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

28番地には、1890年から「ナビ派」(Les Nabis)と称する若い画家たちのうち、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)、エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868-1940)、モーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870-1943)の3人が共同でアトリエを借りていた。入口上部に碑銘板(plaque)が掛かっているが、Googleでは一部不鮮明で読みにくい。当時彼らはまだ20代そこそこで、一緒にジュリアン画塾で学び、アカデミスムの停滞と印象派の成熟に立ち向かい、新たな世代として絵画を改革しよう意気込んでいた。

彼らナビ派の若者たちはゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)から受けた啓示を護符(Talisman)のように奉持した。それは「絵画とはいかなる対象物であるよりも前に、まず一定の秩序に配置された色彩に覆われた平面である。」というような内容である。「ナビ」(Nabi)とはヘブライ語で預言者を意味するが、新しい芸術世界の到来をメンバーのそれぞれがその活動によって預言するのだという心意気からであった。万博などの機会に西欧にもたらされた日本の浮世絵の平面的な表現手法も大きな影響を与えた。

※追記: Flickr.com に碑銘(Plaque)の鮮明な拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。
Monceau
Bonnard, Denis et Vuillard plaque - 28 rue Pigalle, Paris
https://www.flickr.com/photos/monceau/25041604356/in/photostream/

Pierre Bonnard :Crépuscule ou La Partie de croquet
Paris, musée d'Orsay (1892)
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski Droits d'auteur:(C) ADAGP

(←)左掲はこの時期にボナールが描いた『夕暮またはクロケのゲーム』(Crépuscule ou La Partie de croquet, 1892)である。彼の父親と妹、そしてその夫となる作曲家のクロード・テラス(Claude Terrasse, 1867-1923)がモデルとなっている。
画面に凹凸が感じられず、夕暮という時間に印象派の画家ならば、夕陽の輝きや光と影を表現するのが不可欠だが、ここにはその要素はまったく含まれていない。25歳のボナール初期の注目作である。

彼らのアトリエにはほどなくして俳優で演出家で劇場支配人となった同年代のリュニェ=ポー(Lugné-Poe, 1869-1940)が合流した。彼は当時のあらゆる芸術活動を誘引し、連携させるという共同事業の中核的な役割を果たした一人である。1893年にヴュイヤールを巻き込んで「作品座」(Théâtre de l'Œuvre) という劇場をクリシー地区に創設し、斬新な象徴主義的な演劇に取り組んだ。最初の演目はメーテルランク(Maurice Maeterlinck, 1862-1949)の『ペレアスとメリザンド』(Pélleas et Mélisande)だった。
Edouard Vuillard : La Farce du Pâté et de la tarte (1892)
Saint-Germain-en-Laye, musée Maurice Denis - Le Prieuré
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Benoît Touchard

(→)右掲はヴュイヤールが1892年に描いた中世フランスの笑劇『パテとタルト』(La Farce du Pâté et de la tarte) の舞台装置画で、ナビ派の仲間たちによる人形劇として上演された。

1896年には奇才アレフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)の戯曲『ユビュ王』(Ubu roi)を上演するために、舞台装置やポスター・デザインをボナール、ヴュイヤール、ランソン、セリュジエらに依頼した。音楽はボナールの義弟にあたるクロード・テラスが担当した。


Maurice Denis :
Madame Ranson au chat (1892)
Musée départemental Maurice-Denis
« Le Prieuré »
Wikimedia Commons






ナビ派の若者たちは頻繁に顔を合わせる芸術論を戦わせたが、仲間の一人ポール・ランソン(Paul Ranson, 1861-1909)の15区モンパルナス大通りにある自宅およびアトリエに集まることが多かった。彼らはそのサロンを「聖堂」(Le Temple)と、そしてランソン夫人を「聖堂の光」と呼んだ。
(←)モーリス・ドニがこの時期に描いた『ランソン夫人と猫』(Mme Ranson au chat, 1892)は当時流行した室内装飾に用いられた装飾画板(パノー・デコラティフ Panneau décoratif) で、我々日本人にとっては、襖絵や屏風絵を模した彼らの絵画表現なのだと直感する。ここでも平板的な描画として、大正ロマンの竹久夢二の絵を連想させる。22歳の完成度に驚かされる。(LAI, PRR)


*参考Link :100年前のフランスの出来事:
(1) モーリス・ドニの絵、ドイツへ(1906.03.07)
http://france100.exblog.jp/1219649/

(2)演劇俳優組合救急基金のための慈善公演「ユビュ王」 (1908.02.15)
http://france100.exblog.jp/7655066/


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